約千巻あったといわれる『山海庶品』
を編さんした本草学者 佐藤中陵

最終回である今回は、江戸後期に水戸藩に仕え、およそ千巻あったといわれる図鑑集『山海庶品(せんがいしょぼん)』を編さんした本草学者 佐藤中陵(ちゅうりょう)について、弘道館学芸員瀬戸さんにお話をお伺いしました。

弘道館学芸員瀬戸さん

PROFILE

瀬戸祐介

茨城県水戸市土木事務所偕楽園公園課弘道館事務所 学芸員
茨城大学で歴史地理学を専攻。卒業後、コンテンツ株式会社でデジタルアーカイブの仕事に携わり、美術館、博物館、図書館の所有する多くの貴重美術品のデジタル化の仕事に携わる。その後、現職。

 

聞き手/鈴木ハーブ研究所 代表鈴木、スタッフ滝、雨谷

 

多くの藩に仕えた、大名達に人気の本草学者

瀬戸さん:佐藤中陵は1762年江戸出身で、父親である本草学者 佐藤端義に子供の頃から教えを受けました。勉強量も多く早熟だったようで、20代から一人前の本草学者として知られていたようです。

明治時代に創刊された『日本博物学年表』にも、貝原益軒や平賀源内とともに名だたる本草学者として紹介されており、日本の本草学に重要な役割を果たしたのですが、残念ながらあまり中陵に関する資料が残っていません。

仕事としては、藩のお殿様に仕え、植物を調査し進言するといったコンサルタントに近い仕事をしていたようです。
拠点は江戸でしたが、薩摩、白河、上杉、会津、松山、水戸と多くの藩に仕えました。江戸で評判が高い学者だったので、各藩の殿様の耳にも入ったのでしょう。

白井光太郎 著『日本博物学年表』,白井光太郎,1908. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1870590

右下が佐藤成裕(中陵)白井光太郎 著『日本博物学年表』,白井光太郎,1908. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1870590

 

雨谷:それは参勤交代で各藩が江戸に集まるからですか?

 

瀬戸さん:そうです。大名の殿様達は、江戸で将軍に謁見する待機時間などに、大名同士でよく情報交換をしていたようで、中陵は非常に評判が高かったようです。
最初は20歳という若さで薩摩藩に招かれ、どのような食物が取れるか産物調査を行いました。次に米沢藩の上杉鷹山に仕えて米の収穫量を増やす施策や、1802年に出版された『かてもの』という、凶作や飢饉に備えて米や麦の代用食となる植物と調理法などが書かれた手引書の編纂に影響を与えたと考えられています。

[莅戸善政 著] ほか『かてもの』,米沢図書館,大正3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1183113

[莅戸善政 著] ほか『かてもの』,米沢図書館,大正3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1183113

鈴木:上杉鷹山は飢饉に備えて、食用にもなる垣根の“ウコギ”を民家に植えるよう奨励していたそうですね。

 

瀬戸さん:昔は飢饉があった時に、食べてはいけない植物を食べて亡くなる方も多かったようです。『かてもの』では本当に食べても問題ないか、藩の家老も一緒に試食をして行政として責任を持って出版したといわれています。

中陵は、南は薩摩から北は米沢まで、日本全国の藩を渡り歩き、また自ら山に入りフィールドワークも行う実践的な人でした。植物の植生など全国的な傾向を知っており、その藩で食べている植物や栽培方法などを他の藩にも伝えるといった、非常に重要な役割を果たしていたのです。

 

佐藤成裕(中陵) 『温故斎菌譜』,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2536493

しいたけ栽培も佐藤中陵が発展させたと言われている。 佐藤中陵 著 『温故斎菌譜』,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2536493

50年弱勤めた水戸藩での貢献

滝:水戸藩には何歳くらいから勤めたのでしょうか。

瀬戸さん:39歳頃から水戸藩徳川治保に仕え、治保の後も、治紀、斉脩、斉昭、慶篤と続いて仕えました。
徳川斉昭の時には、『七十二候新撰』という季節を細かく5日ごとに分けて紹介する書物を提出しています。七十二候(しちじゅうにこう)は、元々は中国で考案された季節を表す方式のひとつで、一年を“立春”や“春分”というように24の季節に分けたものを更に初候、次候、末候の三つに分けた、いわば生き物や植物、自然のスケジュールを表したものです。中陵はその日本版を作ってみたわけですね。今見ていただいているものは写本ですが、おそらく絵も中陵自身が描いていたのではないかと思います。

 

佐藤成裕(中陵)『七十二候新撰』,白井光太郎写,明治24. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2536691

佐藤中陵 著『七十二候新撰』,白井光太郎写,明治24. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2536691

 

 

同じく斉昭の時におよそ千巻あったといわれる動植物や鉱物の図鑑集『山海庶品』の編纂を開始しました。斉昭がどういう目的で編纂を命じたのか文献は残っていないのですが“植物などの活用法をまとめる”“政策のツールとして使用する”といった理由の他に、斉昭がこの世のあらゆることを知りたいという好奇心があり、中陵なら応えてくれそうだと期待して命じたのではないかと思います。

 

『山海庶品』は構成や文章は中陵が考えましたが、中陵は字があまり上手ではなかったようで字の清書は別の人が書いている可能性があります。絵は弘道館職員として絵師が確認されますので、専属の絵師が描いていると思いました。巻数はおよそ千巻あったといわれていますが、確かな記述がありません。
非常に残念なことに弘道館の戦いでほとんど焼失し、佐藤中陵が自宅に持ち帰っていたと考えられる6冊しか残っていないのです。
もし出版していればもっと残っていた可能性がありますが、世間に広めるというよりは、弘道館で蓄積・更新し続ける”本草データベース”のように考えていたのかもしれません。

 

佐藤中陵『山海庶品』水戸市立図書館所蔵

佐藤中陵『山海庶品』水戸市立図書館所蔵

佐藤中陵『山海庶品』水戸市立図書館所蔵

佐藤中陵『山海庶品』水戸市立図書館所蔵

『山海庶品』が焼失してしまった理由

雨谷:『山海庶品』はなぜ焼失してしまったのですか?

 

瀬戸さん:明治元年10月1日(1868年11月14日)弘道館の戦いで、『山海庶品』を保管していた弘道館が戦争に巻き込まれ焼失しました。
今もその時の銃弾の跡が正門や館内のあちこちに残っています。

斉昭は藤田東湖や会沢正志斎など有能な人物を身分関わらず重用していました。
逆に家柄のある上級藩士からすれば面白くないわけです。そして次第に、下級藩士で構成される尊王攘夷を推し進めようとする改革派(天狗党)と、それに反発する上級藩士により構成される保守派(諸生派)に分裂し軋轢が広がることになってしまいます。

一時は諸生派が水戸藩の実権を掌握していましたが、1867年大政奉還で江戸幕府が終わると、今度は形勢が逆転し、新政府寄りであった天狗党が水戸藩の実権を奪い返すことになります。

そして“弘道館の戦い”で、天狗党や斉昭の正室であった登美宮吉子(とみのみやよしこ)は水戸城にたてこもり、諸生派は水戸城の隣にある弘道館にたてこもり戦いを始めます。

吉子は宮家の方ですので、藩の当時の立ち位置を象徴していると言えるかもしれません。徳川家の御三家でありながら、皇室にも繋がりがある。ある種の矛盾が党派対立と組み合わさり、隣り合った水戸城と弘道館で戦いという形で具現化されてしまったわけです。戦い自体は1日で収束し、諸生派が退却しました。

弘道館も『山海庶品』も斉昭と家臣達によって作られたのですが、その家臣達によって争いが生じ、結果として弘道館も『山海庶品』も焼失してしまったわけです。せめて『山海庶品』がわずかでも残っていれば、中陵の成し遂げた仕事がさらに明らかになっていたと思うのですが非常に残念です。

 

貧乏で出世欲も無し?87歳まで生きた中陵の人物像

雨谷:佐藤中陵はどのような人物像だったのでしょうか。非常に長生きだったと聞きました。

 

瀬戸さん:69歳から『山海庶品』の編纂を始めて、82歳の時に弘道館内に医学館が開かれ本草教授となります。87歳で亡くなるのですが、江戸時代末期の成人後平均死亡年齢が60歳なので、非常に長生きですよね。やはり植物観察のために山を歩き回っていたので基礎体力があったのと、健康に良い食べ物や漢方などの知識があったことが長生きの理由ではないでしょうか。

 

プライベートでは、奥さんがいたか正式な記録が無いので恐らく独身だったようなのですが、弘道館の教授頭取だった青山家から延昌という養子を取りました。青山家の日記を読んでいると、延昌の家に行く度に“屋根が抜けているので直した”とか“壁を直した”といった記録が残っているので、非常に貧乏で家も粗末だったようです。

逆に言うと、それだけ金銭欲が無く、地位や名誉を求める出世欲も無かった人ですね。自分の研究の世界に没頭し、ひたすらコツコツと真面目に学問に取り組む、とても純粋な人だったのではないでしょうか。佐藤中陵の絵を見ると誠実な人柄も感じます。

 

 

 

人の命や生活を支えた「本草学」

滝:中陵が一生を通じ取り組んだ“本草学”とはどのようなものなのでしょうか。

 

瀬戸さん:本草学とは、ハーブとも通じますが、生活を豊かにするものであると同時に、当時としては”生き残るため、生活を支えるため”の学問です。
具体的には、元々、本草学は中国でできたものなので、日本ではどの植物で代替できるのかローカライズしてその土地や気候にあう栽培方法の調査を行ったり、しいたけやサツマイモといった食べ物になる植物を調べ栽培したり、植物から薬を作る方法を調べるといったことを行います。
人の命や生活に関わるので、学者達はとても真剣に取り組んでいたと思います。その代表格として、江戸時代の本草学に貢献した中陵をあげていいと思いますし、中陵を知る人がもっと増えると良いなと思いますね。

 

鈴木:新たな『山海庶品』が発見される可能性もあるのでしょうか。

 

瀬戸さん:佐藤中陵は6冊だけ自宅に持って帰っていたと言われていますが、真実は分からないですね。
私達が展示会を開催するのは、もちろん歴史的な史実をお伝えしたいという理由もありますが、“新たな資料の発見のきっかけになれば”という思いもあります。展示会を観て知っていただいたことがきっかけで、新たな資料の発見に繋がるということが、本当にたくさんあります。
先祖が集めたものを子孫が価値を知らずに捨ててしまう、ということが、私達学芸員が一番恐れていることです。
金銭的な価値は低いけれど、歴史的な価値が高いものもあります。弘道館でも、古文書や歴史的な資料の相談を受け付けていますので、ご自身で判断がつかない資料があったら、ぜひともに私共にご連絡いただきたいですね。

 

取材後記(スタッフ雨谷)
中陵が描いた絵は非常に精密で、『山海庶品』では植物や動物たちがとても生き生きと描かれていて、本草学が好きで一生涯を捧げたのだということが資料や瀬戸さんのお話を通じて知ることができました。日本中の藩を渡り歩き貢献した中陵をもっと多くの人に知っていただきたいと思いました。

 

弘道館


徳川斉昭により、天保12年(1841)に開設。学問と武芸の両方を重視し、幅広い科目を教授した総合的な教育施設で、卒業の制度がない生涯学習を基本としていました。敷地内には約60品種800本の梅があり、偕楽園と並び梅の名所になっています。

ホームページ:https://kodokan-ibaraki.jp/

 

《弘道館展示室 特別展示のご案内》
『水戸藩の医学と弘道館医学館第2期 医学館の製薬事業と水戸藩の薬草』
令和6年6月30日(日)まで

水戸藩第2代藩主 徳川光圀の命で出版された『救民妙薬』に記載されている薬草を紹介する他、佐藤中陵が関わった本草学や医学について展示します。
水戸市植物公園とコラボレーションした、水戸藩ゆかりの薬草の鉢植えも展示中です。

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