徳川家康は薬草オタクで自分で薬も調合していた?
「徳川家と薬草について」第2回は、今年NHKの大河ドラマで話題の徳川家康について、弘道館学芸員の瀬戸さんにお話しをお伺いしてきました。
PROFILE
瀬戸祐介
茨城県水戸市土木事務所偕楽園公園課弘道館事務所 学芸員
茨城大学で歴史地理学を専攻。卒業後、コンテンツ株式会社でデジタルアーカイブの仕事に携わり、美術館、博物館、図書館の所有する多くの貴重美術品のデジタル化の仕事に携わる。その後、現職。
聞き手/鈴木ハーブ研究所 代表鈴木、スタッフ川又、スタッフ雨谷
自ら薬草を調合し、薬を作っていた家康
雨谷:大河ドラマで話題の徳川家康についてお話をお伺いさせてください。家康は、ものすごい薬草オタクだと聞きました。
瀬戸さん:はい。家康は薬草に詳しく、自ら薬草を調合し、薬を作っていたそうです。
後の三代将軍家光が2歳頃の時に医者が匙を投げるほどの大病を患いましたが、祖父の家康が調合した薬を飲ませて助けたという話があります。これは家光を育てた春日局が東照大権現に奉納した祝詞の中に記載されているので、本当にあったことだと思います。
家康の薬をいただいたという話もあちこちに残っています。
時の権力者から贈呈物をいただくというのは当時の人々にとってステータスとなるので、政治的な意味あいも含まれていたのでしょう。
信長や秀吉の場合は、お茶で権力を誇示していましたが、家康は薬を贈呈することで権力を示していたのかもしれません。
また、家康は自分の症状に合わせて自ら薬を調合し飲んでいたようです。
家康は鯛の天ぷらにあたって亡くなったと言われますが、本当は胃癌だったという話もあります。胃癌だったのに家康は食あたりだと自己判断をして自分で作った食あたり用の薬を飲み、結局薬が効かずに死去したのではと言われています。自身の知識を過信していたのかもしれませんね。
戦国時代を勝ち抜くために必要だった薬草の知識
雨谷: 家康が生きていた時代の医療とはどのようなものだったのでしょうか。
瀬戸さん:当時の江戸時代は今のように医者と薬剤師がいるのではなく、医者が薬剤師も兼ねていました。そのため患者の症状に応じて薬の材料の配合率を変え、調合をするのも医者の仕事だったと考えられます。
調合をするだけでなく、薬草を見分け集めていました。さらに、薬草の育て方によっても効き方が変わるため、栽培方法まで医者は研究していたようです。
家康は好奇心がとても強く、南蛮貿易、武芸、出版など幅広いジャンルにわたり関心を示しており、薬草もその中の一つでした。ただ、好奇心を持ったきっかけとしては民衆のためにというよりは、自分の体のことを知りたい、家臣団や自分達の一族や子孫を守りたい、という思いが強かったように思います。あくまでも戦国時代を勝ち抜くための戦略として薬草や医療というものが必要だと考えていたのでしょう。
川又:薬草の知識はどこで得たのでしょうか?
瀬戸さん:最初のきっかけとしてはお寺のお坊さんからだと思います。昔の武将は小さい頃によくお寺に預けられることがあり、お坊さんに読み書きや兵術を学んでいました。またお寺は当時の医療センターのような役割もあり、最先端の医療に関する本を所蔵し、お坊さんも医療や薬草の知識がある人がいました。
他にも自身で中国の医薬書『医林集要』などの本を読んだり、戦国武将が頼ったと言われる名医”曲直瀬道三”や侍医からも知識を吸収していたようです。
雨谷:家康は自分で薬草も育てていたのでしょうか
瀬戸さん:家康は駿府城の中に薬草園を持ち、4300坪程の広大な敷地に百種類以上の薬草を育てていたと言われています。日本全国のお城を見ると植物園を持っている所は多くあります。大阪城の山里丸、江戸城の紅葉山、他にも金沢城の兼六園や水戸城の偕楽園など、城とセットで植物園を持っています。江戸時代の各地の地図で「お花畑」などと書いてあるところは植物を育てていて、その中に薬草も育てていた可能性もあります。
ただ、家康はあえて“薬草園”と呼んでいたので、薬草を集めて育てたいという意志がありました。それが家康の独自性かもしれません。
江戸時代の衛生観念とは?
川又:江戸の城下町は他の都市に比べてきれいだったと聞いたことがありますが、衛生環境の整った都市作りも家康の計画だったのでしょうか。
瀬戸さん:江戸の城下町は上下水道が整っていて衛生観念が高かったと言われていますが、私は最初から衛生を目的にしていたわけではなく、状況に対処していくうちに結果的にそうなった、という気がしています。
開墾前の江戸は沼があり水はけの悪い土地でした。そこで水を抜いて土地を造り、城を造ってその周りに居住地を造りました。井戸を掘っても泥水や海の近くなので塩水しか出ない、そうなると山から水を引っ張ってこなくてはいけない。多くの人が住める土地を造っていく中で、上下水道が整備され、結果として衛生的な都市になったのだと思います。家康が全てを見越して計画的に江戸を造ったと言いたいところですが、おそらく当時は、ネズミが感染症を連れてくるとか、水が汚いから病気になるとか、そのような衛生の考え方自体、分かっていなかったのではないでしょうか。
鈴木:家康は合戦時に石鹸を兵に配り、衛生管理を行っていたと聞いたことがありますが、「石鹸で洗う」というのは、当時でいうとだいぶレベルが高いことだったのでしょうか。
瀬戸さん:そうですね。石鹸は作ること自体が大変なことで、量産できないですよね。質と生産性を考えると、当時は身内と自分の兵に配るまでで大衆には行き渡っていなかったと思います。ただ家康が亡くなった後、家康の形見として石鹸が伝わっていますので、手がきれいになる舶来の不思議なものといった扱いだったのでは?と思います。
鈴木:どのような物が形見分けされていたのかは分かっていますか?
瀬戸さん:駿府御分物という形見分けの記述が残っています。徳川家康のお薬も駿府御分物に入っています。茶道で抹茶を入れる棗(なつめ)という容器がありますが、それに封をしてあって薬が入れられています。これを小さな薬壺として家康が持ち歩いていたのでしょう。
家康が薬壺を形見として残したのも、家光を治した時のように子孫たちの役に立つものを残したかったという事なのかもしれませんね。その一環として、石鹸もあったのだと思います。
欧米でも石鹸がメジャーになるのは大分後の16世紀17世紀になってからのようで、江戸時代は服を洗濯するのにも灰汁(あく)を使っていたようです。
ちなみにお風呂についてですと山梨県には温泉がたくさんあって、信玄の隠し湯なんて言われるのもありますが、それは負傷した兵士の傷を治すため、湯治としての役割、方法論であったと思います。
江戸時代は薬草や温泉など身の回りにある複合的な方法を用いて人々の健康をケアしていたのだと思います。
薬草マニアだった家康の功績が後世へ引き継がれた
川又:薬草を集め、薬を研究することで、家康は世の中をどのようにしていきたいと考えていたのでしょうか。
瀬戸さん:家康は戦国武将ですから、軍団を強固にしたい、子孫を守りたい、という想いがあったと思います。家康の薬草園の薬についても調べたところ、大名クラスに与えた記述はありましたが、一般大衆に分け与えたという記述は見つかりませんでした。大衆の役に立つように、といった風潮は1700年代くらいに入ってからだと思いますね。
川又:大衆に与えたというと、8代将軍吉宗が思い出されます
瀬戸さん:そうですね。やはり1700年代の吉宗の時代あたりには、人々を助けなければ武士がなりたたないという自覚がありました。江戸時代の前半、中盤、終盤で、武士の意識が違うと思います。薬草マニアだった家康の功績がゆっくりと形を変えて引き継がれ、吉宗で大衆医療に変化したり、本草学の充実につながっています。
光圀が『救民妙薬』を出版したことも本を自ら出版した家康の影響があるかもしれません。薬草の民間療法の本を出版することで、大衆がそれを読み、自分の家に梅を植えたりと、薬箱代わりに薬草を植えていたわけです。その時代から考えると私たちはいかに高度な医療体系で生命を維持しているかが分かりますね。頭が痛ければ薬箱から頭痛薬を飲めるわけですから。歴史の積み重ねのおかげで現代の私達は医療を享受しているわけです。
取材後記(スタッフ雨谷)
家康の薬草に関する話をお伺いして、家康の好奇心・探求心、そして自ら実践していく家康のすごさを思い知りました。
また、家康の時代の江戸初期は、その都度、薬草から薬を作っていたことや、
民衆はなかなか医療に繋がることが出来なかったことを考えると、現代医療の有難みを再認識しました。
弘道館
徳川斉昭により、天保12年(1841)に開設。学問と武芸の両方を重視し、幅広い科目を教授した総合的な教育施設で、卒業の制度がない生涯学習を基本としていました。敷地内には約60品種800本の梅があり、偕楽園と並び梅の名所になっています。
ホームページ:https://www.ibarakiguide.jp/site/kodokan.html
《弘道館展示室 特別展示のご案内》
“水戸藩の医学と弘道館医学館について”展示を行う他、
第一期と第二期で下記テーマに沿った展示を行います。ぜひお越しくださいませ。
第1期:令和5年11月1日(水)~令和6年3月31日(日)
水戸藩の医学と弘道館医学館について、疫病との戦いについて
第2期:令和6年4月1日(月)~令和6年6月30日(日)
水戸藩の医学と弘道館医学館について、水戸藩の薬草と医学館の製薬について