“偕楽園”が梅の名所になった理由とは?

 

鈴木ハーブ研究所が茨城県にあり、また 代表鈴木さちよが、弘道館医学館の薬草園跡地の三の丸小学校卒業というご縁もあって、水戸徳川家について調べてみました。すると、薬草を研究し人々のために有効活用していた史実がみえてきました。
このコラムでは、“徳川家と薬草” というテーマで、水戸徳川家の歴史に詳しい 弘道館学芸員 瀬戸さん に連載形式でお話を伺います。

第一回目は、今ちょうど“梅まつり”で賑わっている、
徳川斉昭(とくがわなりあき)がつくった“偕楽園(かいらくえん)”についてインタビューしてきました。
歴史を知り学ぶことで、現代に生きる私達のヒントになればと思っています。

 

PROFILE

瀬戸祐介
茨城県水戸市土木事務所偕楽園公園課弘道館事務所 学芸員
茨城大学で歴史地理学を専攻。卒業後、コンテンツ株式会社でデジタルアーカイブの仕事に携わり、美術館、博物館、図書館の所有する多くの貴重美術品のデジタル化の仕事に携わる。その後、現職。

聞き手/鈴木ハーブ研究所 代表鈴木、スタッフ滝、スタッフ雨谷

偕楽園は水戸藩の藩士達がリラックスするための場所だった?

──:偕楽園では、2年ぶりに通常開催となった“梅まつり”が開催中です。
毎年多くの観光客が訪れますが、そもそも偕楽園は何の目的でつくられたのでしょうか?

 

瀬戸さん:  天保13年(1842年)に水戸藩第九代藩主 徳川斉昭が、学びの場としての”弘道館(こうどうかん)”をつくり、同時に心を解放しリラックスできる場所として”偕楽園”をつくりました。人を弓の弦にたとえた、一回張(は)って、一回弛(ゆる)めるという”一張一弛(いっちょういっし)”の思想のもとに、弘道館と偕楽園がセットで創設されたのです。
ただ、弛めるといっても、お酒飲んでぐたぐだするとかではなくて、漢詩を読んだり笛を吹いたりといった、より文化的な活動を通して、心を解放し豊かな人間になろうという場所でした。

本来、お殿様の庭はお殿様しか入ってはいけない場所でしたが、偕楽園は、水戸の藩士達にも開放されていました。(後に一般庶民にまで開放されました。)
それは、ペリー来航など外国からの脅威が迫る激動の時代の中で、「藩士達が教育を受け個々の能力を高めることが、国を守り豊かにすることにもつながる」との想いがあったからです。弘道館や偕楽園が、近代日本の教育遺産群となっているゆえんでもあります。

世界第2位の広さを誇る偕楽園。約100品種、3000本の梅が植えられている

偕楽園 梅園。約100品種、3000本の梅が植えられている
Copyright ibaraki-kairakuen.jp @IK10283

斉昭が梅にこだわった理由

瀬戸さん:  斉昭は、何かをするときに必ずその趣旨を明示していました。
“偕楽園記碑(かいらくえんきひ)”には、梅畑をつくるという記載があります。
同じく斉昭が書いた“種梅記碑(しゅばいきひ)”には、 “水戸は梅がまれだった” “江戸から梅の実を水戸に送った、それを弘道館や偕楽園に植えたい” “梅の花は春に先がけて咲き、文人たちをよろこばせる” ”梅の実は兵糧にもなる” といった記載があり、梅の効能についても述べられていました。
斉昭は梅の花を鑑賞するとともに、梅の実を収穫する梅畑として考えていたのです。

一説には、梅干など梅の保存食を1年間で千樽も作り、余剰分の販売も考えていたそうです。梅は領内各所にも植えられ、産業として育てることで、水戸を豊かにしたいという戦略もありました。

斉昭自撰の名文が自筆の隷書で刻まれている「種梅記碑」。写真は碑の写し(弘道館所蔵)実際の碑は今も弘道館にある

斉昭自撰の名文が自筆の隷書で刻まれている「種梅記碑」。写真は碑の拓本(弘道館所蔵)実際の碑は今も弘道館にある

 

現在も偕楽園で収穫された梅の実は、販売されているほか、地元の漬けもの屋や酒造屋の製造にも使用されている

現在も偕楽園で収穫された梅の実は、販売されているほか、地元の漬けもの屋や酒造屋の製造にも使用されている Copyright ibaraki-kairakuen.jp @IK10060


梅が植えられたもう一つの理由として、梅には“文を好む木=好文木(こうぶんぼく)”という別称があり、学問の象徴だったという点も見逃せません。
偕楽園内の建物である”好文亭(こうぶんてい)”も好文木が名前の由来です。
学問に力を入れていた斉昭公は梅を領内に植えることで、学問・教育が普及するように思いを込めていたとも言われています。

好文木が名前の由来の好文亭。江戸時代には自由に漢詩を書き閲覧できるノートがあったらしい

好文木が名前の由来の好文亭。江戸時代には自由に漢詩や和歌などを書き閲覧できるノートがあったらしい
Copyright ibaraki-kairakuen.jp @IK10278

千波湖を池に見立てた、ダイナミックな庭園構想

──:偕楽園の造園地として、今の場所が選ばれた理由はなぜですか?

瀬戸さん: 千波湖が見えて景色が良かったということでしょう。昔は好文亭から、那珂湊の海まで見渡せたようです。
江戸では小石川の上屋敷に居住し、そこには国内最高峰クラスの後楽園があります。そのような庭を知りつくしていたので、自分ならばどのような庭をつくろうか、と考え、自然の千波湖を池に見立てて、大きな庭園をつくってやろう、というダイナミックな構想をしたのではないでしょうか。

好文亭から見える千波湖。千波湖は今の3.8倍の面積があり、水戸城の天然の要害としての役割もあった

好文亭から見える千波湖。千波湖は今の4.8倍の面積があり、水戸城の天然の要害としての役割もあった Copyright ibaraki-kairakuen.jp @IK10283


あまり知られていないことですが、当時の偕楽園の敷地内には、陶器作成用の登り窯があり “偕楽園焼き”という陶器をつくったり、ガラスもつくっていました。また、水田やお茶園もあり、宇治から茶師を呼び寄せて栽培指導をさせていました。これらも特産品にしたいと考えていたようですね。
このように水田、お茶園、千波湖、これら全て含めた景色が偕楽園です。かなり広大ですよね。


-:斉昭は、“陰と陽”を意識して偕楽園をつくったと聞きます

瀬戸さん: そうですね。表門から入り暗い道を通ると、急にパッと明るい広場に出る、といったお客様への演出の面もありましたが、一方で、斉昭は“陰と陽”のような、相対するものを並べることが好きだったようです。
“一張一弛”もそうですし、“武館と文館”、“学問と政治”など、相対するものを並べ、バランスを取るという、儒教の考えを取り入れていました。

“実用的” “実践” を何より重んじた斉昭

-:梅の用途といい、斉昭は物事をトータルに捉え、無駄が全く無いですね。

瀬戸さん:斉昭は、1つのものに複数の用途を盛り込んで、より実用的に活かしたいと考える人でした。
また、斉昭は何でも自分でやってみる実践者でした。梅のつぎ木や測量など、自分で実践し、江戸に居住しているときも、細かい所まで水戸の家臣
に指示を送っていました。
他にも、梅の品種を掛け合わせ収量の多い梅を目指すなど、斉昭にとって偕楽園は実験や研究の場でもありました。
そういった面では、鈴木ハーブ研究所のハーブガーデンと同じかもしれませんね。

水戸藩 第9代藩主 徳川斉昭(1800-1860年)

水戸藩 第9代藩主 徳川斉昭(1800-1860年)

農民想いで倹約家だった斉昭

-:お話を伺って斉昭の人物像が見えてきました。 “烈公”という斉昭のおくりなから、激しい性格のお殿様だと思っていました

瀬戸さん: そのイメージばかりが強調されることは、ぜひとも払拭したいですね。
斉昭は、いつもこの農人形(下記写真)をお膳に置き、一箸のごはんをお供えし、感謝をしてから食事をしていました。
当時は身分制が決められていて、それぞれが自分の役割を全うすることで、社会を安定させようと考えていました。
農民をいたわり感謝しながら、藩主としての役目を全うするのがあるべき姿だと考えていたのです。
また斉昭は非常に倹約家でもありました。
偕楽園で、長寿の老人達に絹の羽織を渡す催事をしてましたが、当の本人は毎日木綿の着物を着ていたそうです。
元々、水戸家の三男で、殿様になれるか確証のない立場の人ですし、それが藤田東湖など、皆に支えられて藩主としての自分があるという自覚があったからでしょう。先が分からない時代の中で、人の上に立つことはどういうことか自問自答し、そのような行いに繋がったのだと思います。

この農人形を自分の子供達にも配り「農民あっての私達なのだ」と口を酸っぱくなるほど話し、独立する時は各々に持たせていたといいます

この農人形を自分の子供達にも配り「農民あっての私達なのだ」と常々言い聞かせ、独立する時は各々に持たせていたといいます

偕楽園の見どころと楽しみ方

-: 最後に、梅まつりの見どころを教えてください

瀬戸さん: 偕楽園の好文亭にある梅の間に斉昭が書いた「種梅記碑」拓本を掛けまして、梅に合わせたしつらえにしてあります。また、斉昭亡きあと夫人登美宮吉子さんがどのように暮らしていたのか、思いうかぶように展示されているので、ぜひご覧いただきたいですね。
好文亭三階の楽寿楼の上から見る景色も、江戸時代の光景を思い浮かべながら見ると、また違った楽しみ方ができると思います。

現代版の楽しみ方として、いい梅いい景色があったらぜひとも写真に撮ってSNSにアップしていただければと思います。
心動かされたものを人に伝えることは、江戸時代に漢詩などで気持ちを表現していたことと同じ、文化的な行為だと思います。
もし、斉昭が生きていたらtwitterで炎上していたかもしれませんが(笑)。
一生懸命梅の花にカメラを向けている皆さんを見ると、「ああいいな、斉昭の想いが今も継承されているな」と思います。偕楽園は、文化的な教養を身につける場所でもあるので、好きな梅の品種を深く調べてみるのもいいですね。

見晴台からみた偕楽園の眺め

Copyright ibaraki-kairakuen.jp @IK10012


取材後記

約200年前に斉昭が考えた構想により、偕楽園は梅の名所となり、また今では、梅は水戸市の木 にも制定され市民に親しまれています。
国のことを真摯に考え、後世の私達にも良い影響を与え続けてくれている斉昭の想いや実績を、もっと多くの方に知ってほしいと思いました。
また、昔も今も、多彩な方法で人々を楽しませ、様々な効能で人々の役に立っている、梅の素晴らしさを再認識しました。

日本三名園のひとつ、茨城県水戸市にある偕楽園

Copyright ibaraki-kairakuen.jp @IK10014

偕楽園
2024年2月10日(土)~3月17日(日)まで水戸の梅まつり開催中。
期間中は、野点茶会など、多彩なイベントが開催されています。
偕楽園ホームページ:https://ibaraki-kairakuen.jp/
水戸の梅まつりホームページ:https://mitokoumon.com/festival/ume.html


弘道館
徳川斉昭により天保12年(1841)に開設。学問と武芸の両方を重視し、幅広い科目を教授した総合的な教育施設で、卒業の制度がない生涯学習を基本としていました。
敷地内には約60品種800本の梅があり、偕楽園と並び梅の名所になっています。ぜひ弘道館と偕楽園をセットで訪れ、斉昭の一張一弛の思想を体感してください。
ホームページ:https://www.ibarakiguide.jp/kodokan.html

鈴木ハーブ研究所 偕楽園の梅ハンドクリーム
https://s-herb.com/specialcare/ume_hand_cream/
デザインは「思いのまま」という一本の木の幹に白から、紅の花がさまざまに咲きそろう珍しい品種の梅の花をモチーフにしています。おひとりおひとりが「思いのまま」に自分らしく毎日を過ごせますように、という願いを込めました。
香りは偕楽園で最も多い梅の品種である「白加賀」の香りを再現しました。
※3月19日までの梅まつり期間中、偕楽園内 芝前門付近 日本郵便臨時出張所にて、梅ハンドクリームを販売中です

 

Share