「水戸黄門」が作らせた日本最古の家庭療法本『救民妙薬』とは?
「徳川家と薬草について」第3回は、「水戸黄門」として有名な徳川光圀が作らせた家庭療法本『救民妙薬』について、弘道館学芸員の瀬戸さんにお話を伺いました。
PROFILE
瀬戸祐介
茨城県水戸市土木事務所偕楽園公園課弘道館事務所 学芸員
茨城大学で歴史地理学を専攻。卒業後、コンテンツ株式会社でデジタルアーカイブの仕事に携わり、美術館、博物館、図書館の所有する多くの貴重美術品のデジタル化の仕事に携わる。その後、現職。
聞き手/鈴木ハーブ研究所 代表鈴木、スタッフ家田、スタッフ雨谷
救民妙薬とは?
「水戸黄門様」として知られる水戸藩2代藩主・徳川光圀公が藩医穂積甫庵(ほづみほあん)に命じてつくらせた日本最古の家庭療法本(1693年)。
手帳ほどのサイズで、中風の妙薬にはじまり、酒毒・蛇咬(へびくい)・痔・しもやけ・虫歯・頭痛・脚気・腹痛・おこり(マラリア等の熱病)等、手軽に入手できる薬草を主に用いる処方397種が130項にわたって平易な言葉で記載されており、明治・大正まで続くロングセラーとなった。
徳川光圀が「水戸黄門」として有名になったわけとは・・・?
家田:本日はよろしくお願いいたします。さっそくですが、これが本物の『救民妙薬』ですね!すごく黒ずんでいますね。
瀬戸さん:そうなんです。やっぱり、それだけ使われていたということですね。大体、古文書はそうなのですが、左下が汚れているんですね。ページをめくるときに手垢がついてどんどん汚れていくわけです。この状態をみると、いろんな人に大切にされていた本だというのがすごくよくわかります。立派な本などで、最初のページだけ汚れていて、あとはまっさらというようなこともよくあることを考えると、この本全体におよぶ汚れは、まさにこの本がベストセラーであるという証拠だというふうに思います。
家田:私自身は(茨城)県外の出身ということもあり、「水戸黄門」という名を聞いたことはあっても、『救民妙薬』はもちろん、光圀公についてはほとんど知らなかったのですが、弊社代表鈴木が水戸で学生時代を過ごし、ハーブガーデンを作る際に『救民妙薬』を参考にしたという話をきいて、興味を持つようになりました。
実際に『救民妙薬』の序文を読んでみると、光圀公は世の貧しい人が病気になっても医者にもかかれずただ死期を待っている状況を憂えてこれを作らせたとあり、なんて思いやりのあるリーダーなのだろうと感銘を受けました。実際には、光圀公はどのような人物だったのでしょうか?
瀬戸さん:そうですね。光圀はやっぱり「水戸黄門」として有名なのですが、「水戸黄門」というのは、当時の役職名にあたります。「権中納言(ごんちゅうなごん)」というのが元々の役職なのですが、それを中華風にいうと「黄門侍郎(こうもんじろう)」になるのです。今でいう内閣の閣僚のような感じですね。ですから、実は「水戸黄門」はたくさん存在して、この弘道館をつくった徳川斉昭も水戸黄門なんです。ただやっぱり、「水戸黄門」といえば徳川光圀というイメージが定着していますよね。
光圀は、ご存じの通り幕末の頃には全国を漫遊して悪者を退治して世直しをしたというフィクションができるほど、名君としてその名が日本全国に知れ渡っていました。
この本(『水戸藩の医学』大貫勢津子著)にも出てくるのですが、光圀の死後、「天が下二つ宝つきはてぬ 佐渡の金山 水戸の黄門」と歌われました。それほど、当時の人に光圀が慕われ尊敬されていたことがわかります。
最近ではよく知られているように、実際には光圀公は全国を旅していたわけではなく、一番遠くまで行ったのが鎌倉の江ノ島あたりのようで、ほとんどは江戸と水戸を往復していました。江戸時代のお殿様はだいたいそうで、基本的によそ(自分の領地と江戸以外)へ行くことは許されないわけです。
全国を漫遊してあちこちで悪人をやっつけるという話が成立したのはだいたい幕末で、光圀の時代からは100年以上経過しています。でも、「水戸黄門」といえば素晴らしい人で、その人が助けに来てくれると思われたということは、光圀の死後も、その人物像が忘れ去られないで生き続けていたからこそ、幕末にそういうフィクションができてもポンと受け入れられたんだと思います。
その一部には、やはり世のため人のために『救民妙薬』などの大きな仕事を成し遂げたすごいお殿様だということが、伝わっていたのではないかと思います。
領主として、人としてどうあるべきかを追求した光圀
雨谷:どうしてそういった仕事を為そうと思ったのでしょうか。
瀬戸さん:文化人のイメージが強い光圀ですが、やはり半分「武人」でもありました。(戦国時代が終わったばかりの)江戸時代の初期ですから、光圀も若いころは血の気が多いところがあったようです。でも、だんだんと戦がなくなり世の中が安定しはじめた時に、戦にかけるエネルギーを、民の暮らしを整えることや、学問・文化など人の役に立つことに移していったのがその頃のお殿様だったと思いますし、光圀もそうでした。その一つとして、日本の歴史に強い関心をもち、「彰考館」を設けて『大日本史』という歴史書の編纂にあたったことが挙げられます。
あともう一つは、やはりその時代だったからかもしれませんが、お城に籠っているのではなく、現場に出て行って人と触れ合う中で、どうやって人のための政治「仁政」を実現していくのかを考えたという面もあるかもしれませんね。そういう意味では光圀にはいわゆるベンチャー気質というものがあったと思います。
雨谷:おじいさんにあたる家康には可愛がられていたのですか?
瀬戸さん:家康に可愛がられたのは孫の光圀よりも子どもである頼房(光圀の父、水戸初代藩主)ですね。頼房は家康の11男で、家康がだいぶ年をとってからの子どもなんです。だから、光圀は3代目将軍の家光と歳が近くて兄弟みたいに仲が良かったそうですよ。あの小石川後楽園の池も、家光が作庭にかなり関わっていたといわれています。
家田:水戸よりも江戸にいることの方が多かったのですか?
瀬戸さん:そうですね。基本的には小石川の後楽園のあるところが水戸藩の本拠地で、水戸藩のお殿様はほとんどそこに暮らしていたようです。でもその中でも光圀は水戸をすごく大事にしていて、なるべく水戸に帰ってくる回数を多くしていたようです。理由については色々な説があるのですが、私は、やはり「水戸の民と共に生きていきたい」という光圀の気持ちがあったのではないかと思います。
雨谷:何か、光圀公の性格を表すような具体的なエピソードはありますか?
瀬戸さん:63歳の時、息子(養子、兄の息子)に水戸藩を継がせて、自分は常陸太田の「西山荘」に隠居するのですが、隠居したとはいっても前のお殿様なわけですよね。それなのに、「私はもう常陸太田の農民でございます」といって自分で田んぼを作ってお米をつくり、年貢を納めていたといいます。とても生真面目で曲がったことが嫌いな性格であったことがうかがわれます。周りの人は困ったと思うのですが・・・(笑)。
半分は冗談という気持ちもあったかもしれません。でも、人としてどうあるべきかを真剣に考え、人に迷惑をかけないとか、お殿様の生活費は年貢から支払われるというようなことを思い巡らせた末の行動だったのではないかと想像します。私はすごく光圀さんらしいエピソードだなと思うんですよ。そういう真面目さが民衆の人気にもつながっていったのだと思います。光圀さんに会ってみたくなりますね。
水戸~全国の民に重宝された『救民妙薬』ができるまで
家田:上からの目線ではなく、生活している人の目線を持っていたんですね。
瀬戸さん:それが、『救民妙薬』を作る動機にもつながっていったのだと考えられます。西山荘に暮らすようになってからも、水戸藩の領内のあちこちに出かけて、「今年はお米どうですか」とか聞いて回っているわけですね。もちろん一人ではなく家臣団を連れているわけですが、それでも気さくな感じで。
県北に行くと、山の中に狭い道があって何軒かの家の並びとお墓と神社と田んぼとがセットになっているようなところがたくさんあるわけですが、そんなところにも光圀が来た記録が残っていて、それだけあちこち訪ねているんです。
そんな中で、医者などもいない状況でちょっと怪我したり病気になったら大変だなというのを感じたのではないでしょうか。だからこそ、ああいう本を作ったら役に立つのではないかということを、考えたと思うんです。そして、もし作るとしたらなるべく安くしないとダメだ、身の回りにあるものでどうにかしないといけない、というようなことを当然考えただろうなと思います。
家田:『救民妙薬』に載っているたくさんの情報は、どうやって集めたのでしょうか?著者の穂積甫庵(ほづみほあん)(鈴木宗与)の知識が元になっているのでしょうか。
瀬戸さん:鈴木宗与については資料が残っていなくて謎が多いのですが、光圀の主治医で西山荘のメンバーの一人だったようです。
ですが、『救民妙薬』は決して穂積甫庵一人が作成したのではなく、光圀自身もその内容に関与していたと思われます。光圀はもともと医学薬学に関心が高く、研究熱心だったことを伝えるエピソードがたくさん残されています。小石川の水戸藩屋敷内に薬草園を作り、薬を調剤させて配ったりしていました。また、いろいろな薬の処方を集めた『奇方西山集』(全8巻)を編纂させました。残念ながら現在に伝わっておらず内容はわからないのですが…。まあ、そういうことがあるので、あの本は3年で作ったわけではなく、光圀の生涯をかけて集めた薬方の総決算といったところもあるのではないでしょうか。
ただ、小石川で作らせた薬を配るのは江戸の人達に向けてですし、水戸で配るにしても、やっぱり水戸城の周りの人しか救えない。もっと広く、水戸藩内に住む人民を救いたいという思いが『救民妙薬』の編纂につながったのではないでしょうか。
鈴木:水戸藩の人には無料で配られたのですか?
瀬戸さん:そういう話もあるようですね。さすがに一人一冊とはいかなかったと思いますが…。ただ、『救民妙薬』の売値は銀一匁。現代でいえば千円から2千円ほどでしょうか。比較的入手しやすかったようです。
どういった人が入手したか詳細は分かりませんが、各地の農家の蔵などから見つかっていることから、庄屋、本百姓あたりまでは行きわたっていたのではないでしょうか。当時の日本は農村の識字率も高かったといわれ、百姓は字を読むことができたと思われます。
各地に残る『救民妙薬』は、こちらにあるものと同様、黒く手垢がついていたり、ボロボロにすり切れたものが多く、何度もページをめくって読み返されたことがわかります。
光圀の時代の医療と薬
雨谷:当時藩内に「薬草園」のようなものはあったのでしょうか。
瀬戸さん:先ほどお伝えしたように、後楽園周辺の水戸藩の屋敷内(現在の中央大学後楽園キャンパスから文京シビックセンターを含む区画)に薬草園があったことは確かですが、水戸藩のお城の周りにもあったようです。
また、光圀は樹木の見本林として那珂川沿いに「百色山(ひゃくいろやま)」をつくらせました。百色山には光圀の命により百種類の樹木が植えられ、その中には木材や燃料になるもの以外に、薬用や食用になる樹木もありました。
現在水戸市植物公園の西川園長が、「百樹園」プロジェクトというのを手掛けてらっしゃいます。この「百樹園」というのは、「百色山」を再現して1933年(昭和8年)に開園した樹木園です。当時水戸市で醤油製造業を営んでいた4代目木村伝兵衛氏という人物が、「百色山」の衰退を残念に思い、祖先の土地に造園したもので、(朝ドラで話題になった)牧野富太郎も指導に関わっています。現在は水戸市の都市公園として管理され、市民に開放されています。
他に大規模に薬を生産するための薬園があったかどうかはっきりとわかりませんが、それこそ家の庭なんかも、一種の薬園としての側面もあったのではないかと思います。私たちが家に常備薬を置いておくような感覚で、庭先に薬になる植物を植えるというような知恵はあったのではないでしょうか。
家田:現代の暮らしに染まっている私たちには、なかなか当時の暮らしを想像するのが難しいのですが、少なくとも今のようにドラッグストアに行けば薬を買えたり、すぐに病院にかかれるような感じではないですよね。
瀬戸さん:今と比べればとてつもなく不便なはずですからね。医者にしても、各村に一人もいなかったのではないでしょうか。道も舗装されていないですし、子どもを医者に診せるためにおぶって山一つ越えていった話とかよくありますね。あれはそう昔の話でもないはずです。今のように医師免許があるわけでもなく、腕もバラバラだったと思います。当時は薬にしても、山伏とか、山に入る人々が知識を持っていて、山のものを採っておろしていたりしたわけです。
医療がそういう状態だった中で、『救民妙薬』のようなものは必要とされたのではないでしょうか。具合が悪いときに毎回山を越えていくわけにはいかないわけですから。
失われていく民間療法と、現代に生かせる薬草の知恵
雨谷:今の世を光圀がみたら、どう思うでしょうか。
瀬戸さん:今の、だれでも医療にアクセスしやすくなった状況を光圀さんがみたら、きっと喜ぶのではないでしょうか。
一方で、それこそ路傍に生えているものを薬にするような、民間に伝わる療法というのは急速に失われている状況がありますね。
鈴木:私が子供の頃は、祖母にいわれて、ヨモギやツクシ、ワラビ、フキノトウなどいろいろな植物を採ってきたものです。ユキノシタを採ってきて天ぷらにしたり、火傷したときはアロエの葉をちぎって患部に当てたり。本当に、つい最近まで残っていた生活文化が、ここ数十年で急になくなってしまったんですね。
また、民族学や植物学の観点からすると、野山に人が入って木を切って燃料にしたり、ツルなども道具の材料にしたことが、山の手入れにもなっていたということはありますね。今は人が入らないし、私有地になっていてだれも整備していないところがたくさんありますね。木を切らないと光が入らなくて下草やキノコも出ないそうです。
瀬戸:山というのはかつては資源のタンクだったわけですよね。最近の研究では、むしろ江戸時代にはやりすぎてはげ山だったという説もありますね。工業化とのバランスでいい塩梅になって、里山風景ができた。だとすれば、適度に山から植物を採って利用することで里山の景観や生態系を保護していくという方法もありますよね。そういう観点から本草学、植物学を見直していければと思います。
鈴木:農家の庭先っていうのは結構見本になるといわれています。それを真似して家庭菜園をつくると、タネがこぼれて勝手に花が咲いて、色々に利用できるということです。例えばツユクサとか、雑草と思っているような草花も含まれる庭です。
瀬戸さん:ドラッグストアの場所を把握してるだけで、安心していてはだめですね(笑)。
鈴木:それも、大切なことですよね。でも、もう一つの手段として、ハーブの知識とか草花を利用するすべを持っておくのは大切なことだと思っています。
実は現代の私たちでも知っているような草でも色々なことができるんです。オオバコで保湿クリームを作ったり、ドクダミをお茶にしたり・・・。
瀬戸さん:「救民妙ハーブ」ではカッコ悪いかもしれませんが(笑)、そういうハーブの知恵をまとめたものを作って下さったらとても素晴らしいことだと思います。
取材後記(スタッフ家田)
徳川光圀についての詳しいお話を瀬戸さんからうかがって、あの有名な「水戸黄門」がこんなにも民衆のことを大切にするリーダーだったということに改めて感銘を受けました。その想いが形になったのが『救民妙薬』であり、その想いをわれわれも受け継いで、化粧品やハーブを通して、社会に貢献していきたいと思います。
弘道館
徳川斉昭により、天保12年(1841)に開設。学問と武芸の両方を重視し、幅広い科目を教授した総合的な教育施設で、卒業の制度がない生涯学習を基本としていました。敷地内には約60品種800本の梅があり、偕楽園と並び梅の名所になっています。
ホームページ:https://www.ibarakiguide.jp/site/kodokan.html
《弘道館展示室 特別展示のご案内》
“水戸藩の医学と弘道館医学館について”展示を行う他、
第一期と第二期で下記テーマに沿った展示を行います。ぜひお越しくださいませ。
第1期:令和5年11月1日(水)~令和6年3月31日(日)
水戸藩の医学と弘道館医学館について、疫病との戦いについて
第2期:令和6年4月1日(月)~令和6年6月30日(日)
水戸藩の医学と弘道館医学館について、水戸藩の薬草と医学館の製薬について